世界中のすべての面白いゲームをやり尽くすことが17のときの夢だった。
学生に金は無いが時間があるというこの社会の理は私にも適用されていて、たしかLavieのノーパソやps2、xbox360でできる範囲のゲームをやっていた。Elonaをやり、フリゲに浸かり、バイオ5を弟と10週ぐらいして、SAS4を1年ぐらい続けて、タイトーメモリーズでtaitoを知り、テラリアをやり、Cookie clikerをバックグラウンドで動かし、Elona shooterで知ったKongregateで今は亡きflashゲームを寝食惜しんで没頭した。今思うと二流三流のゲームでさえ、その刺激は退屈かつ孤独な学校生活よりはるかに刺激的で。
私のゲーム習慣にはある程度のサイクルがあり、それを思い出したので書く。
- 退屈期 - (やりたくないことを除いて)やることがない、没頭しているゲーム/コンテンツが無い時期。かつ、刺激を求めている状態。この時期に次の拠り所を求めてゲームを調べる。VIPRPGとか、smokingwolfの動向やウディコンを見たり、あとは……どうしていたか。暇なときにはゲームカタログwikiを読んでいたこともあるが、あれは娯楽としてであった。社会人になってからはもっぱらautomatonとかの記事とsteamでゲームの動向を追っていたが、今になってはあの頃どうしていたか思い出せない。以前やっていたゲームのアプデ等を調べては再開することもある。
- 試遊期 - 面白そうなゲームを見つけて試す。あまり面白く無い場合は1に戻る。
- 没頭期 - 面白く、自分と相性がいい、楽しいゲームに出会い、ずっとプレイする時期。この時期は、家での空き時間ほとんどすべてを対象のゲームに費やす。
- 休閑期 - ストーリーが終わった、やり尽くした、飽きた等、ゲームから得られる刺激が単調になると飽き、この時期に入る。没頭を経験した後は、あまり新しいゲームを始める気にはならない。ちょうど、いい映画を見た後、しばらく別のものを見る気にならないように。経験を反芻しているのだろうか?
- 繰り返し - 十分に時間が経つと1に戻る。
まあ、途中途中で休憩はあるし、ニコ動なども楽しんでいたものだが。そんな感じだった。
さて、そのような習慣が永遠に続くとあの頃の私は無邪気に思っていたものだ。「あ、また退屈期が来たぞ」とあの頃は思っていた。何回も来ることは、永遠にあるのだと思っていた。
だが、若かりし習慣が死体の目玉のように溶けて無くなることは皆様もご存知のように、私のゲーム習慣も例外ではなく……最近では、休閑期が長くなっていたり、あるいは退屈期――退屈と名がついているがこれはゲームをやりたいという欲である――に入らなくなった気がする。
では何をしているかというと、このように駄文を書いていたり、アニメ、小説、漫画、映画、あるいは新作ボイドラを調べるなど、そのようなことに費やされている。
物語に餓えている。
こうして明白に知ることになったのは、自分はゲームのためのゲームが嫌いであり、テトリスなどもってのほかである。ぷよぷよもディグダグもエレベーターアクションも、ちょっと触って飽きるのは、そのためである。
たしか、架空のゲームをレビューする体裁の小説で、韓国産のゲーム中毒矯正用ゲームというのがあったな……普通のゲーム画面が、段階的に単純化されて、単純な線と、増え続ける数値だけになるというやつ。あれは、初めて読んだときからすごくつまらなそうだとずっと思っていた。その反対こそ好みなのだろう。増える数字など、何の意味もなく、ただ体験だけが真実である……
自分が好んでいたのはメタルブラックやGダライアス、エレベーターアクションリターンズのような、ビジュアル、サウンド、そして(添え物であっても)哀愁のあるシナリオ。そういう総合芸術的に楽しい方向性のゲームを好んでいた。ゲームはすべての観点から物語を語ることができる。音で、テクスチャで、テキストで、ゲームシステムで。新しい体験。新しい習熟。新しい世界。それらが揃って初めて没頭できる。
変愚蛮怒より片道勇者
バイオハザードよりPE2
クレイジーバルーンよりキャメルトライ
そういう好みだった。
でも、それは一種、自分を介した物語でもあった。前に進み、新しい景色が見える、難しすぎないが、手放しで進めるほど簡単でもない道のりを自分の手で進むこと。
で、おそらくは"自分で進める"ことにとうとう飽きたか、疲れたかしたのだろう。前ほどゲームへの飢餓感を感じなくなった。替わって、物語への餓えが増大した。
替わる、変わる、カワル。万物流転、諸行無常。口では簡単に言えるが、どれが変わるかというのは、体感しないと分からない。
あの頃は想像できなかった。これからも想像できない。今は今しかない……