自分には想像力が無い。
あれやこれやと漫画とかゲームとかアニメとかを摂取して、夢想に耽るということはあるが、なんというか、作品の中の輝きをもう一度咀嚼するにとどまって、空想が広がらない。あり得たかもしれない日常にまで、記憶を作ることが出来ない。
それは、絵を描く人とか、二次創作する人と自分を対比して現れる差である。無かったものを作り出す、想像する、それほどの能力が、なんだか昔から自分に欠けているのではないか、と思う。
なぜこんなことを気にするかというと、自分はそちら側だと思っていたからだ。空想がちの、物語好きな、イマジネーション溢れる人間だと。多分、違った。自分にはクリエイディビチーが無い。想像力が無い。どちらかといえば、現実しか見れない人間に近い。ただし、その現実というのは、目の前の情報から得られる物語を含む。そして、入力がない場合、自分は何も想像できない。
想像できない。そうだ、自分はよくリーフィアと仲良くなることを空想していた。中学から高校にかけて、思春期の夜の大半をリーフィアの想像に費やした。でも書き留めるほどの面白いことは想像できなかった。何かというと、森の中、少し開けた草々の、光降り注ぐ中で日向ぼっこしているリーフィアと仲良くなるとか。あるいは、森の小屋で昼は釣りと採集し、夜は食べて、そしてベッドの中で一緒に眠り、少し青臭い、リーフィアの香りとクリーム色の体毛の下の肌の柔らかさを感じるとか。そういったつまらない妄想ばかりで、物語を想像できた試しがない。
思ってみれば推理力が無い。小学生の頃、あの、レイトン教授が好きだが苦手だった。(隣の部屋で母が歌謡番組を見て歌っている声が、うるさい。猫のためにドアを開け放しているので、よく聞こえてしまう。BGMでも掛けたらどうだ、自分)
レイトン教授のタネ明かしというか、わかったという感じは好きだったが、自分はどのように問題を解決すればいいか、いつもさっぱり道筋も直感も見えなかった。視野が狭いのか?なので、やや総当り気味でいつも答えて、大変苦労した。でもよく出来ているし、答えの仕掛けが分かるのは楽しかったので、2作か3作やったと記憶している。
で、こう思ったのはさっきInverted Angelをやっていて、ぜんぜんわかんねー!となったからで、エンディングの一個の会話が今朝読み終えた『好き?好き?大好き?』に似ていて、アレも全然わからなかったな、と思ったからである。
にゃるら氏はずいぶん感じ入っている解説を書いているが……自分の心は不感症のように何も感じなかった。イカれてんな、こいつら。全然物語が分からないし。というのが、自分の率直な感想だ。で、訳者あとがきでそういうことだったのか、とタネ明かしされた感じの衝撃をいくつか受けた。そうかこれは推理も必要な詩だったのか……と。だがはっきり言って自分が想像できるほどの情報は、その本自体には無かった……。
詩は苦手だ。考えることと想像することが多い。それは、よく知った相手の詩なら幾分理解しやすいが……
知った人の詩といえば、歌は好きだ。谷山浩子と平沢進が好きだ。歌は気持ちよくなれる。意味が音に乗って、何かを伝えてくれる。文字だけじゃ、自分は何も分からないようだ。平沢の歌曲はずいぶん聴き込んで、意味を掴めるのか、掴めないのか、分からない感じで、でも音の良さでがっちり心掴まれるという部分が好きというか、離れられない理由だ。谷山浩子はどストレートで自分でも分かりやすいので。夕焼けりんごの空気感とか好きである。
なんの話だったか?ああ、そうだ。自分がモノを書くときは、多分想像力を大きく働かせる、自分が憧れるタイプの長編は無理だ。短く、日常の発見を純粋に取り出したようなモノにするべきだろう、ということだ。別に書く予定無いけど。